フォー・フリー、フォー・フリーダム 

友人がよく見ているという、米国の大学のオンライン無料提供授業サービスをのぞいてみた。Courseraと呼ばれるこのサービスでは、歴史、コンピューターサイエンス、経済、社会など様々な分野の授業を受けることが可能だ。

コースについて説明を読むと、世界に名の通った教授陣の講義を自分のペースで聞き、課題を提出できるだけでなく、生徒同士意見交換ができる場もあるという(https://www.coursera.org/#about)。

「初心者向き」という授業であっても、言語の壁厚しである。加えてものぐさの性分で、学期末までもちこたえるかという疑問もある。…が、ある授業を受講しようと登録したところである。世界のどこかにいるクラスメートと語り合えるといいなあと思いながら。



いいじゃん 

海外で研究をしていたという人と、大学生の会話を耳にした。「わあ、○○で生活してたんですか。いいですね〜。私も行ってみたいなあ」という学生に、研究者の「行けばいいじゃん」の一言が放たれたとき、冷やりとした。年齢や立場、渡航の目的も異なり、相当の苦労もあったであろう体験をした人からすれば、おそらくは何度も聞かされた「うらやましい」云々に辟易していたのかもしれない。あるいは他意のない返答だったかもしれないし、学生の方も気にしなかったかもしれない。しかし、傍で聞いていた私にはこのやりとりが記憶に残った。なぜ心に引っかかったのか。

行動したくてもできないというとき、スケジュール、費用、安全面、家庭の事情など人それぞれにできない理由があるだろう。上記の会話を耳にした頃の自分は、どちらかというとそうしたことを「理由」にして、行動に移せないことが多かったのではないか。今振り返ると、そうした自分が言い訳がましく感じられ、しなかったことに対する後悔を引きずっていることがある(したことへの後悔もあるが、比較的にという意味で)。

抑制する自分と思うまま行動したい自分がいて、折り合いがつくこともあれば葛藤することもあり、判断と結果にまずまず納得できるときもあれば、別の選択の方がよかったかと省みるときもある。相応の責任が伴うとなれば尚更に。

行ってみれば 言ってみれば 動いてみれば いいじゃん
行ってみても 言ってみても 動いてみても いいじゃん
行かなくても 言わなくても 動かなくても いいじゃん
いずれにしても結果が伴う。

そんなに責めなくても そろそろ手放しても 笑ってもいいじゃん 
と言う自分もいる。

友 

別れや出会いの季節、といわれるが、春は「思い出す」季節でもあり、そこでは桜の花の存在が大きいと思う。

地下鉄車内である人と2、3度目が合った。(思い出せないけれど)知り合いなのか、私の顔に何かついているのかとも思ったが、すぐに気にならなくなった。別の乗客が座席から離れ、自分と目が合ったその人がそこに座るように見えたが、1m以上離れた所からどうぞとジェスチャーを送ってくれた。感謝と敬意の念を払いつつ、いえいえどうぞとジェスチャーを送り返した。

花冷えだったものの夜桜に酔い、お互い機嫌が良かったということなのだろうか。もしも別のときに別の場所で会っていたら、譲り合う気持ちにはならなかったかもしれない。印象に残る一期一会となった。

茨木のり子は「たまに会って うっふっふと笑いあえたら それで法外の喜び」、「ひんぴんと会って くだらなさを曝け出せるのも悪くない」、「縛られるのは厭だが 縛るのは尚 厭だ」と、『友人』という詩で詠っている。ある人が言っていた「年々知人は増えていくけれど、友人はなかなか増えない」のはなるほどそうだと思う。

友人が新たにできたら
無理しないでつきあいが続いたら
再会した旧友と今も気が合えば
最高だ けれど
見知らぬ人と交わされる一瞬の好意的なやりとり 友好的な雰囲気は
桜の花咲くように潔くて その淡さがかえって沁みるときもある

うづきへ きづきへ 

フランク・ワイルドマン博士が著し、藤井里佳先生が翻訳された『健康で知的なからだをつくる51のレッスン』(森ノ宮医療学園出版部)が発売された。『スポーツメディスン』に連載されていたものを再編集し、書物にまとめている。椅子に座ってできるレッスンや、運転やウォーキングがより楽になるレッスン、すばやくストレスを解消する方法、呼吸改善、など日常生活のさまざまな場面で気負わずに行えて、楽しめるレッスンが提案されている。イラストに加え写真も入ったことで、レッスンがより分かりやすくなっている。

ワイルドマン博士のメッセージで特に心に響くのが、「私自身も含め、何百人もの教え子たちを観察してきて、ストレスの主な原因は、自分が認識するスピードより早く動くことだと考えます。一瞬ごとに認識が周囲の環境と関係づけられれば、圧倒されて困ることはありません。しかし誰かに動きを要求されたり、刺激で動くとき、認識がはっきりしないままですと、自分を見失い、刺激にも過度に反応してしまいます」という箇所だ(158頁)。

時間に関して以前と違う感じ方をするときがあり、戸惑いと好奇心を覚えていた。自分がこうありたいという認識速度と実際の自分の反応・行動との関係が異なっていると、ときに歯がゆさ(思うように情報処理できない)、ときに照れくささ(あれれ、どうやら感じて、判断して、反応できているのかも〜?)がのぼってくるのだ。

博士は、ストレスに負けないための2つのトレーニング方法があり、1つは認識スピードを速めバランスよく軸を保ち、静かに呼吸すること、そしてもう1つが自分自身の認識のスピードで動くための機会を提供するフェルデンクライス・メソッドのレッスンだと述べている。「周囲の環境としっかり関わりながら、呼吸し、思考し、自己の生体反応を考慮に入れて行動し、反応する能力を発揮することは、ストレスからのすばらしい解放となります」(158-159頁)。

「思い立ったが吉日」も然り。
春の事始めもまた、よいなと思う。

“春”な訪れ 

「おてがみ」(アーノルド・ローベル作、三木卓訳『ふたりは ともだち』文化出版局)は誰からも手紙が来ないことを嘆き悲しむがまくんに、かえるくんが手紙を書きかたつむりくんに配達を頼む・・・という話である。今日こそは願いが叶うのではという期待が今日も叶わなかったという倦怠、これからもきっと・・・というあきらめで半ば固められてしまった、がまくん。しかしかえるくんが彼の気分を変える行動を起こす。

印象的なのは、かえるくんがもったいぶらずに自分が手紙を出したこと、そして手紙の内容を告げるや否や、(がまくんと一緒に)「待つ身」−大げさに言えば運命共同体−にあっさりと転向することだ。かたつむりくんの配達という「不確実性」もまた、待つことの楽しさにつながっている。歓迎を受けるかたつむりくんもあたたかさに包まれることだろう。

かえるくんは、観察者、外から見守る存在ではない。手紙が届くまでの時間は、二人には長くは感じられなかったのではないか。

共に待つ喜び。